この記事では、長野県の上田市にある、上田城の歴史について紹介しています。
真田幸村が戦国時代に築城した上田城は、徳川軍と真田軍の二度の戦いの舞台となりました。
上田城の歴史
真田昌幸が建てた平城の上田城
長野県の上田市には、市街地の中心に千曲川(信濃川)が流れています。
千曲川の支流である尼が淵(あまがふち)を天然のお堀として、その断崖上に真田昌幸が上田城を建てたのは、戦国時代の1583年のことです。
昌幸が建てた上田城の城下町は、その後発展して、現在の上田市の中心街となりました。
上田城の二度の戦い
第一次上田合戦
武田信玄の家臣であった真田昌幸は、武田勝頼が亡くなったあと、元々の拠点である真田の地から8キロほど離れた場所に築城した上田城を居城として勢力を拡大しようとします。
上田城が築城して間もない1585年、徳川家康が当時真田の領地であった沼田を北条氏に渡せと命じますが、昌幸はこれを拒否します。
家康は怒って上田に大軍を送り、上田城で戦います。これが「第一次上田合戦」です。
親子で西軍と東軍にわかれる
真田軍は少数でしたが、徳川勢と戦い勝利をおさめました。
第一次上田合戦のとき、昌幸は越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に援軍を頼み、人質となったのが昌幸の次男の信繁(真田幸村)です。信繁は景勝に連れられて大阪に行き、豊臣秀吉の警護役となります。
秀吉が死ぬと関ヶ原の合戦がはじまり、真田昌幸と信繁は西軍の石田三成方に、昌幸の長男の信幸は東軍の徳川家康方につきます。
第二次上田合戦と関ヶ原の戦い
関ヶ原に向かおうと、中山道を大勢の兵を率いてやってきた徳川秀忠の軍が、上田城の昌幸の軍と小競り合いをします。そのため秀忠は関ヶ原の合戦に間に合うことができませんでした。
これが第二次上田合戦になります。
関ヶ原の合戦は徳川方の勝利に終わり、昌幸と信繁は和歌山県の九度山に幽閉されます。そのときに上田城も完全に取り壊されて、お堀もすべて埋められてしまいました。
上田城の復元
櫓と櫓門のみ復元された上田城
関ヶ原の戦いから22年後の江戸時代、上田城の城主となった仙石忠政(せんごくただまさ)が上田城の再建をはじめました。
仙石忠政は上田城に堀や石垣、櫓(やぐら)と櫓門(やぐらもん)を築きましたが、再建途中に病死して再建は中止となってしまいます。
明治時代に入ると、上田城は西櫓以外の櫓と櫓門が解体されて、民間に売却されます。その後土地を買い上げた人が、上田市へ寄付し、今の上田城址公園となりました。
上田城に天守閣があったのかどうか?
上田城に天守閣は建てられていたのでしょうか?
真田昌幸が築城した当時の上田城の本丸に、天守閣があったかどうかはっきりとしたことは不明ですが、本丸に金箔瓦がのった大きな建物があったと考えられています。
その理由は、西櫓から歩いて5分ほどの本丸のお掘から、金箔のついた鯱瓦(しゃちがわら)が発見されたからです。
この鯱瓦は、江戸時代に復元されたものではなく、戦国時代(安土桃山時代)につくられた瓦です。
上田城の二度の戦いの歴史まとめ
上田城は、小さい規模でありながら2度の戦いを経験した、全国でも珍しいお城です。
復元された上田城の櫓に登って、櫓のなかから真田昌幸の軍が少ない人数で、徳川の大軍を迎え撃った当時の様子を想像しながら、上田城を歩いてみるのも楽しいかと思います。
上田城の観光についてはこちらの記事をどうぞ
上田城の見どころと、観光の所要時間については、上田城の所要時間と見どころを紹介の記事をあわせてご覧ください。